歴史小説って、地名が多くてむずかしい……そんな心配がある人にこそ、和田竜『小太郎の左腕』をおすすめします。舞台は一五五六年。戸沢家と児玉家がにらみ合い、猛将・林半右衛門と、左手で鉄砲を撃つ十一歳の少年・雑賀小太郎が物語の中心になります。文庫は小学館文庫版(2011年)。
どんな話?(ネタバレ少なめ)
戦でけがをした半右衛門は、山で猟師の要蔵と孫の小太郎に助けられます。小太郎はおとなしいけれど、鉄砲の腕がずば抜けています。しかも左手で構えるのが体に合っている。のちに城下の鉄砲試合に出て、風にゆれる凧を落とし、みんなをおどろかせます。やがて大きな戦いが始まり、追いこまれた味方を救うため、半右衛門は小太郎を戦場に呼びます。少年が引き金を引くたびに状況はよくなるけれど、心はけずれていく。最後に半右衛門は、自分の生き方でけじめをつけます。短いけれど熱い物語です。
読みやすい理由
- 人物がしぼられていて、顔ぶれを覚えやすい(半右衛門/喜兵衛/小太郎)
- 場面の切り替えがはっきりしていて、映像のように“見える”
- 専門用語が少なく、動きで読ませる構成になっている
- 完全フィクションなので、史実にくわしくなくても大丈夫
作者の“映像感”はどこから?
和田竜さんの文章は、カット割りのように感じます。人物の目線が動くたび、読者の視点も動く。音やにおいもセットで届くので、場面が立ち上がります。鉄砲の火皿に火が落ちる一瞬、槍の石突が土をはねる一瞬。小さな時間をていねいに並べるから、“見える”のです。
私の“刺さった”3ポイント
- 戦い ― 鉄砲の火花、煙のにおい、耳に残る音。火薬をこめ、導火線に火を移し、息を止め、引き金を引く。文章なのに、手順が頭の中で再生されます。
- 揺れる心 ― 小太郎は、ほんとうはふつうに生きたい子。でも才能が強すぎて、戦いに引っぱられてしまう。半右衛門もまた、勝ちたい気持ちと、人としてのやさしさの間で揺れながら、最後の一歩を選びます。
- 覚悟 ― 敵将・花房喜兵衛との一騎打ちは、勝ち負けだけでなく「どう終えるか」を語る時間。静かな礼と覚悟が胸に残りました。

雑賀衆ってなに?(ちょっとだけ史実)
小太郎の出自にある「雑賀衆(さいかしゅう)」は、いまの和歌山市・海南市のあたりにいた人びとのまとまりで、鉄砲で名を上げました。地域は「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」の五つに分けて語られます。海運や商いも盛んでした。読み方は“さいが”ではなく“さいか”。
「鈴木孫一(すずき まごいち)」という名は通称で、実名は鈴木重秀とする史料もあります。通称が代々続いた、と見る説もあります。つまり、ひとりの超人ではなく、地域の力と技術の積み重ねが強さの源泉だったのです。
火縄銃はむずかしくない
必要なのは「粉(火薬)」「球(弾)」「火(導火線)」の三つ。口から粉と弾を入れ、ぎゅっと固め、火皿に少し粉を置き、導火線の火を近づけ、引き金を引く。体の向きを少し横にして、息を止める時間は短く。これだけで射撃シーンが頭に浮かびます。
初心者向け・読み方のコツ
- 登場人物はまず3人だけ覚える → 半右衛門/喜兵衛/小太郎
- 争いの軸をひと言で → 「戸沢家 vs 児玉家」
- 小太郎の気持ちに寄りそう → 「撃てば勝てる。でも心はすりへる」
好きな3シーン(ネタバレ少し)
- 鉄砲試合の凧落とし:左構えに切り替わった瞬間、時間がゆっくりになる。
- 包囲の夜:月明かりと遠いかがり火。少年の呼吸だけが残る。
- 別れの礼:半右衛門と喜兵衛の一騎打ちは、命のやり取りであると同時に“礼”の場面。

和歌山に行くともっと楽しい
和歌山市では春に「孫市まつり」が行われ、火縄銃の演武や行列が見られます。旅行の機会があれば、海の風と町の起伏を体で感じてみると、物語の背景がぐっと近づきます。
関連作への道しるべ
- 『のぼうの城』 ― “弱い主人公”の逆転劇。合戦の盛り上げ方が痛快。
- 『村上海賊の娘』 ― 海の力を描く長編。群れのダイナミズムが味わえます。
『小太郎の左腕』でテンポに慣れてから読むと、さらに楽しめます。
おわりに(やさしいまとめ)
『小太郎の左腕』は、むずかしい知識がなくても楽しめます。小太郎の「人並みになりたい」という願いと、半右衛門の「武士としてどう生きるか」という問い。二つの思いがぶつかり、最後に静かにおさまる。歴史小説はまだ…という人にこそ、まずこの一冊を手渡したい。